発達障害グレーゾーンの娘が学童をやめて、私も仕事を手放すしかなかった話

発達凸凹娘・小学校時代

発達障害グレーゾーンの娘の特性がはっきりしてきた頃、私は看護師の仕事を続けることが難しくなりました。正確に言うと、続けたかったけれど、続けられなくなった、という方が近いかもしれません。

毎日のように学校から連絡が来たり、突然のトラブルに呼ばれたり、「今日は何にもありませんように」と願いながら働く日々でした。でも、その願いはあまり叶いませんでした。

職場に迷惑をかけているという気持ちと、いちばん大変なのは娘本人なのに、私の余裕がなくなっていくことへの憤り。少しずつ、仕事にも育児にも中途半端になっていきました。あの頃は、何を優先しても、何かを諦めるしかなかったんです。


娘が発達障害のグレーゾーンだとわかったのは、小学校に入学してまもなくの頃でした。進学という大きな環境変化によって、それまで隠れていた発達障害の特性による問題行動が、とくに学童保育所で大きく目立つようになりました。

学童保育所の退所を決めた時の記事はこちら

学童保育所の退所を決め、そして、私自身も仕事を続けていくのが難しいと判断し、退職をすることにしました。今回は、その頃のことを書いていきたいと思います。


当時、私は看護師として病院勤務をしていました。夜勤は月に2〜3回、お給料は手取りでだいたい27万円くらいでした。朝、子どもたちを送り出し、仕事が終われば娘を学童に迎えに行く、そんな毎日でした。

学童を辞めると、娘は学校が終わったらすぐ家に帰ってくることになります。まだ鍵の管理は年齢的にも難しく夫や両親にも頼れる環境ではなかったため娘が家に帰る時間には私が家にいなければなりませんでした。

幸い、直属の上司に理解があり、有休も残っていたので、勤務調整(土日祝勤務を増やす、夫の休みの日に勤務する)と時間給(早退をして娘の帰宅時間に帰る)を使いながら、なんとか踏みとどまろうとしていました。でも、本当は薄々わかっていました。退職の時期を引き延ばしているだけで、このままでは仕事を続けることはできない、と。

辞める決心がつかなかった理由は、やっぱりお金のことでした。仕事にも慣れていたし、職場は家からも近くて残業も少なめでした。でも何より、私の給料がなくなることへの不安が大きすぎました。

今思うと、頭の何処かでまだ期待していたんだと思います。娘の特性もそのうち落ち着いて、またすぐに学童に通えるようになるんじゃないか、って。勘違いだった、と思いたかったんです。でも、特性は一生付き合っていくものなんですよね。


ある日、管理職の方々に呼び出されました。表面的には、早退が多い勤務状況についての確認でしたが、実際は肩叩きでした。

「いつまでこの勤務が続くんですか

「これはパートの働き方ですよ」

娘の状況については、推測であれこれと言われました。無責任な言葉に傷つきもしました。そして、いろいろな意味で潮時なんだと感じ、退職することにしました。

(今考えると、時短勤務や、働く時間を調整できる職場だったら、もしかしたら続けられたかもしれませんね。当時の職場はそれが難しい環境でした。)

学童を退所してから、娘の問題行動は減りました。でも、学童を再開をすることはありませんでした。娘はまわりの刺激を強く感じ取ってしまう面があるので、とても疲れやすい子でした。学校だけでも精一杯なのに、そのあとに学校より狭くてうるさい学童に行くのは、本当につらかったと思うのです。その後は放課後等デイサービスを探すことにしたのですが、そのこともまた書いていきたいと思います。


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