発達障害グレーゾーンの娘が学童をやめた理由と、その後の変化

発達凸凹娘・小学校時代

小学校入学後、発達障害グレーゾーンの特性が一番目立っていた時期に、私が決断したことがあります。それは、学童保育所を辞めることでした。

小学校に入学してからなんだか様子が変わってきた、というお子さんはいませんか。

言葉遣いが荒れている笑わなくなった暴力を振るうようになった、などなど…。

私の娘は、小学校入学してまもない頃から、学校や学童保育所で問題行動が目立つようになり、のちに発達障害グレーゾーンだということがわかりました。


私がまずした決断は、すぐに学童保育所を辞めることでした。この決断は、間違っていなかった、これ以上の選択はなかった、と今も思っています。


当時、私は看護師として病院勤務をしていて、日にち指定(子どもがまだ小さかったので)ではありましたが、月に2〜3回の夜勤もしていました。

学童保育所を退所することは、私も仕事が続けられなくなる、と同義でした。(両親に頼ることも夫の仕事を調整してもらうことも難しい環境でした。完全なワンオペでした。)

当時は、娘の特性が一番大変な時だったので、退職したあとも、一体いつから仕事を再開できるのか、どんな働き方なら仕事することができるのか、まったく先がわからない状態でした。

生活を考えると、経済面で強い不安を感じたのを覚えています。


娘は、小学校に入学する前に、発達障害の傾向を指摘されたことはなく、私自身に発達障害の知識がまったくなかったので、疑うこともなかったし、気づいてあげることもできませんでした。(もっと早くに気づいてあげることができれば、小学校に入ってからこんなに娘が苦しむことがなかったのではないかと思ったこともありました。)

学校でも落ち着きのなさはあったようですが、一番特性が問題行動として出るようになったのは学童保育所でした。

大声、奇声、蹴る、たたく、物を投げる。今までトラブルを起こしたことがなかったので、学童からはじめて話を聞いた時には信じることができませんでした。

今日だけじゃないか、そのうち落ち着くんじゃないか、そんな風に思いたかったです。止まるどころか、激しさはどんどんエスカレートしていきました。

凶暴化した娘はお友達を泣かせない日はない、というくらいに毎日何かしらの問題を起こしてきて、学童ではすでに有名人になっていました。まさにトラブルメイカー。娘が知らない子たちもみんなが娘のことを知っている状態でした。

だれかれかまわず、暴力が出てしまうので、誰も娘には近づかない…。

いつかお友だちに怪我をさせてしまうんじゃないか

このままではいじめられたり、孤立してしまうんじゃないか

こんなことが頭をよぎりました。

そして、学童からは、このままだと学童の利用の継続は難しいので、加配をつけるための承諾書を書いてほしいこと、そして、医療機関の受診をしたほうがいいこと、を伝えられました。

渡された承諾書に書かれていたのが、「発達障害」の文字。

現実を受け止めた瞬間でもありました。


加配を付けたら、学童を継続することはできたのだと思います。でも、その選択は私のなかにはありませんでした。


娘はADHD+ASDの混合型でちょっと複雑なタイプ。ひとりが好きな子ならいいのですが、ADHDの特性のある子は、本来は人好きでお友だち思いの子が多く、娘もまさにそうでした。

だから、ひとりぼっちになることだけは避けたいと思いました。このまま学童に通い続けることで、乱暴な子というイメージが固定してしまうことが怖いと思いました。


退職を考えたとき、本当に悩みました。

でも

学童をやめたなら、働き方を考え直せばいい

経済的に苦しいなら、家計を見直せばいい

それだけのことだったんです。

やっぱり、子どもが笑っていてくれることが一番。学童をやめた娘はそのあと、どんどん落ち着いていきました。仕事のこと、お金のことはまた書いていきたいと思います。

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